玉山国立公園内には、清国時代と日本時代に開かれた道路が残っており、中部山岳地帯の開発の歴史を知ることができます。鄭成功が台湾を占拠していた影響で、清国政府は台湾の開発に消極的でした。一方で、台湾の温暖な気候、肥沃な土地に惹かれ無数の漢人系住民が台湾へやってきました。そして、1874年、台湾最南端に近い牡丹社で琉球難民が殺害された事件をきっかけに、日本が軍隊を派兵。この後、清国は沈葆楨を台湾へ派遣し防備を固めます。そして、沈葆楨は台湾横断道路の建設を始めたのです。

中でもメインルートとなったのは、林(土+巳)埔(現:南投県竹山)から東の八通關を経て、璞石閣(現:花蓮県玉里)までを結ぶ道路で、10ヶ月あまりで全長約152キロの道が完成したとされています。これが今の「八通関古道」です。この道路の目的は、漢人を東部に行かせ、開墾させ、外国人の侵略を防ぐことでしたが、開拓作業の効果は著しくなく、この道を利用する人も多くはありませんでした。その上、軍による修繕作業も持続せず、荒れるにまかされていたと言われています。

日本時代に入り、俗に言う「理蕃事業」が進められます。これは日本の支配を甘受しない原住民族を押さえつけることを意味していました。その第一歩として、原住民族の槍と弾薬が没収されましたが、大正3年(1914年)、日本人が武器没収政策を実行した際、ブヌン族はこれに抵抗。翌年、ラフアレイ兄弟が人々を率いて警官駐在所を襲撃しました。これが大分事件と呼ばれる事件です。事件後、日本人は古道を封鎖し、塔馬荷(現:玉穂)へ移動。ここに基地を建てました。そして、大正8年、大分事件に関して残された勢力も全面粛清されました。事件の解決を経て、改めて「八通関越横断道路」が建設されました。これは大正10年に完成し、全長125キロでした。昭和6年、日本人は里壟(現:台東県關山)から六亀(現:高雄県六亀)までをつなぐ「関山越警備線」(全長175キロ)を開きました。これによって(草冠に老)濃渓とラクラク渓両岸に散在したブヌン族は完全に日本人の俯瞰に収められ、直接監視下に置かれました。

結局、昭和8年(1933)年、ブヌン族は完全投降し、18年にも渡るブヌン族の抗日運動は終結を迎えました。清国時代の八通関古道は清国の台湾経営に対する政策転換を見ることができ、日本時代の八通関越横断道路及び関山越警備線は日本人の理蕃政策の産物として、台湾史をたどる好材料となっています。